ブログのタイトルを変えた

このブログのタイトルは敬愛する高村薫先生の短編から取って「暗夜を行く」というものにしていたのだが、考えてみると私の人生、別に暗夜を行ってはいないなと思ったのでブログのタイトルを変えた。

あとカクヨムでちょいちょいとフィクションを書いていくつもりなのでこっちもぜひフォローの上、ご感想、お題など大募集でございます。 

小説は公開終了しました。お読みくださった皆様ありがとうございました〜。

匂わせ問題・推しの結婚について

二宮和也さんの結婚の話、ブコメを読んでいて違和感があったので所感を書きます。

bunshun.jp

 

私はこの記事に割と共感しました。特に以下のあたりです。

この大人なファンの心理状態は、社会学者の大澤真幸氏によるところの「アイロニカルな没入」だと言うことができるでしょう。みんな「結局アイドルとは恋人同士にはなれない」と斜に構えて冷静に見つつも、コンサートへ足繁く通い、CDやグッズを買いまくり、アイドルを目にしたときには「愛してる~!」「結婚して!」と叫んでしまう。 

 

そしてこのファンによるアイロニカルな没入は、アイドルとファンの“共犯関係”によって成立しています。

 

また、id:hard_coreブコメにも共感しました。さすがキンボ・スライスをアイコンにする人は信頼できますね。

《二宮和也結婚》“炎上元アナ妻”A子さんの「暴力的な”匂わせ”行為」を社会人類学で分析 | 文春オンライン

プロレスをやれよってことだろうな。この嫁はセメントを要求し続ける空気の読めないレスラーみたいなもんかね。

2019/12/05 00:33

b.hatena.ne.jp

 

アイドルとプロレスが似ているというのはよく聞く話です。それはリアルな人間を、フィクショナルな偶像としても楽しむ二重構造があるためです。

いま我々がプロレスを見るとき、リアルファイトではないという前提で見ます。オカダ・カズチカ「一番強いやつがIWGPのベルトを巻く」と言っている場合、それは「喧嘩で一番強い人がチャンピオンになる」という意味ではなく、フィクションとしてのキャラクター・世界観に載った言葉を吐いているのだなと解釈し、楽しむように思考を切り替えているわけです。まさに「アイロニカルな没入」であり「共犯関係」であります。

もっと卑近な例を出せば、物語を楽しむときもそうでしょう。みんなナウシカやルフィやドラえもんが実在しないことなどわかっていますが、これは嘘なんだとわかった上で彼女らに感情移入し、行く末を見守るわけです。これも作者と読者が「共犯関係」を結んでいるといえるでしょう。

で、二宮和也さんの結婚の件ですが、私はファンへの敬意を欠いていると感じました。

「アイドルの結婚を祝福できないファンは心が狭い」という言説も出回ってますが、それは単純な見方だと思います。例えばNegiccoNao☆さんや、でんぱ組.inc古川未鈴さんが結婚したときには、多くのファンは喜び祝福をしていました。ジャニオタが特別狭量なのか? いや、V6の坂本昌行さんが熱愛発覚しましたが、ファンからは祝福されていますよね。つまり二宮さん個人の要因でしょう。

オカダ・カズチカならコーミエやミオシッチにも勝てる!」といっているプロレスファンがたぶんいるように(いないかも)、アイドルファンにも「いつかニノと結婚するんだ」と信じているガチ恋勢がいるのは確かだと思います。ただ、多くのファンは、いつか推しもリアルな世界で誰かと結婚するのだと理解しつつ、アイドルが作り上げる偶像を楽しんでいるわけです。ならば、アイドルを飯の種にする以上「祝福できる形に落とし込んでよ」というのがファンの願いであって、「共犯関係をそっちから崩すんじゃねえよ」というのが怒りの本質でしょう。私の好きなあの人が取られて悔しいという単純な嫉妬ももちろんあるでしょうが、もっと複合的な感情だと思います。

A子さんがやっていた匂わせ行為というのは、「君たちが応援しているアイドルは裏では私とラブラブなんですよ」という野暮な行動です。せっかく結んだ共犯関係を、現実側から突き崩そうという誰も得しない干渉なわけです。そりゃあ嫌われますよ。ヤクザがプロレスラーを裏に呼んでボコボコにしてる動画を上げたり、文楽を楽しんでるときに関係ない人が舞台に上がって「ここに動かしてる黒子がいますよ」とかやっているのと同じですから。「そんなことはわかってるから見せないでよ」という話でしかないわけです。二宮さんはプロとしてそれを遠ざけるべきでしたし、二宮和也個人として遠ざけないという選択をしたのなら、仕事人として批判を浴びても仕方はないと思います。

もちろんA子さんへの誹謗中傷がよろしくないのは間違いありませんし、法に抵触している場合はきちんと罰を受けるべきだとは思いますが。

神奈川県民が崎陽軒を愛しているというのはデマだという話

N国の話ばかり書いていてあれだが、一昨日くらいから立花氏の崎陽軒不買運動に対し、神奈川県民が激怒しているみたいなデマが流れているので訂正したい。統計取っていないので私の感覚になってしまうけど、大半の(私の感覚では98%くらいの)神奈川県民は別に崎陽軒にそこまで愛着はないと思う。

目立つのはこういうやつ。

 

 

私は川崎市中原区というところの出身で、TVKテレビ神奈川)も見ていたので「美味しいシウマイ(シウマイという呼ぶことも初めて知った)崎陽軒」のメロディーは耳に刷り込まれているけれど、なんというか崎陽軒横浜市の企業であって、別に神奈川全体のものではない。もちろん愛着がある人もいるのだろうが、県民食みたいな扱いをされると大変違和感がある。「箱根の温泉まんじゅうを馬鹿にされたら、神奈川県民はブチ切れる」みたいなことを言われているのと大差ない。

実際に同じような見解も見受けられる。

横浜市民ですら愛着がないという見解。

 

 

相模原や小田原の人にとって愛着がないという見解。川崎も同様と思う。

 

藤沢市のかたの見解

 

ほかの市の人は関心がないという見解

こんな話も。

matome.naver.jp

 

なぜこういうデマが広まるのかというと「部外者の知らないローカルルールで一致団結する人たち」という設定が普遍的な面白さを持つからだろう。ブータンの国民は世界一温和で、親を馬鹿にされても怒らないが、王様を馬鹿にされると怒り狂い最悪殺される」みたいな話をされると、自分の価値観が相対化され揺さぶられる面白さがあるわけで、崎陽軒の件が広まっているのは同じ構図だろう(ブータンの話は私が3秒で適当に作った嘘ですよ)。

ただやはりこういう面白いデマが広まって、「神奈川県=崎陽軒」みたいな概念がミームとして定着するのは文化の捏造というか、いいことではないと思う。そもそもひとつの地域をひとつの価値観で塗りつぶすような話も嫌だ。差別はそういうところからはじまるのではないか。「崎陽軒は別に神奈川県民にそこまで愛されているわけではなく、神奈川の県民食でもなんでもない」という、正確な情報がきちんと広まることを願って止まない。

NHKとN国と私

NHKと私

十年ほど前、引っ越しをした新居でNHKの集金人に居座られたことがある。

当時の私は一人暮らしで、オートロックつきのマンションに住んでいたのだが、集金人は何らかの方法でエントランスを突破してきたのか、突然玄関前に現れた。眼鏡をかけた真面目そうな中年男だった。受信機があるなら契約をしてくれと言われたが、テレビは当時持っていなかったし、車も売ったばかり、とある事情で携帯電話も持っていなかったので、受信設備はカーナビワンセグ含め何も持ってない。が、これを集金人は嘘だと判断したようだった。携帯がないと言ったあたりで、目の色が変わった。

「いまどきあなたのような若い人が携帯電話もないなんて、信じられない。テレビも本当は持ってるんじゃないの?」

そこから先は押し問答である。何も持っていないと説明する私と、本当はあるはずだ、嘘をつくなという集金人。一人暮らしだと分かって高をくくりだしたのか何か変なスイッチが入ってしまったようで、「ここまでされたら俺も引き下がれませんので!」などと言いながらやがて隣室にも聞こえるほどの大声で恫喝をはじめた。ドアを閉めようとすると足を挟んでくるし、ついには「家に入れて隅々まで調べさせろ」とまで言い出したので警察を呼びたかったのだが、そもそも110番をするための電話がないのでそれもできない。

「あなたのような勝手な人間がいるから、負担をしている人が大変困っている。もう裁判起こすから、法廷で言いわけをするように!」

玄関先の口論は三十分くらい続き、そんな捨て台詞を残して集金人は帰っていった。その一件があってから完全に調子を崩してしまい、貴重な休日だったのに何もできずに一日寝て過ごす羽目になった。

後日電話を手に入れて(ワンセグなしのものを選んだ)NHKのコールセンターに苦情の電話を入れたのだが、ここでの対応もひどかった。「集金人は弊社の社員ではないので、個別の対応にはお答えできない」「業者に連絡し、指導をしておきます」。NHKや集金業者から謝罪を書面でよこせと言っても「前例がないのでできない」。「それならもう謝罪はいいので、二度と集金人を家にこさせないで欲しい」と訴えても「システムの都合上それはできない」。住所とステータスを紐付ければいいだけなのになぜできないのか、契約している家には訪問はしていないだろう。「お答えできない」。無力を感じた。

 

N国と私

それから断続的にNHKのことを思い出しては憤ることが続いていたのだが、ある日YouTubeを「NHK 集金」などのワードで検索をすると、ひとりの男性の動画がヒットすることに気づいた。それが立花孝志氏の動画だった。彼は「困ったことがあったら僕に電話をかけてくれ」と携帯電話の番号を公開していて、実際に上記のようなトラブルに介入し集金人を追い返すなどの活動をしていた。

立花氏の威圧的な言動は見ていてちょっと怖かったが、こういう人が求められていることは理解できた。私は揉めた当時まだ二十代で集金人を押し返す気力があったが、例えばこれから老後を迎え、若い集金人に恫喝をされたら押し切られない自信はない。もっと穏やかな性格に生まれていたら、あのときに納得が行かないままハンコをついていた可能性もある。そういう可視化されていない被害者が、日本には恐らくたくさんいる。

立花氏のその後の躍進は周知の通りで、ついには参議院議員にまで上り詰めてしまった。古谷経衡氏などは「日本人の知性の底が抜けてしまったのではないか」などと偉そうなことを言っていたが*1、現場にはこういう名もなき人間の苦しみがあることが全く見えていない。「N国に投票をする人間は馬鹿」というような言説も溢れかえっているが、そういう方々もこういう現実があることをぜひ考えて欲しい。恐怖を感じるような圧迫的な訪問が今日も続いていて、そのときに古谷さんやマツコさんに電話をかけても助けてはくれない。NHK問題なんか触っても何のメリットもないので、既存政党の議員も無視の一手。そんな中、ジョーカーと分かっていても立花氏を頼らざるを得ない人の気持ちは、私には理解できる。

立花氏は長年に渡って現場の弱者を救済する活動を続けていて、選挙でも徹底的にドブ板を展開していた。N国の選挙戦略の見事さもあるのだろうが、そういった現場での活動の集積が、あの一議席のバックボーンとして重く横たわっているのである。

 

NHKとN国

https://www.asahi.com/articles/ASM897367M89UCVL02T.html

昨日NHKは「受信料と公共放送にご理解いただきたいこと」という題で三分ほどの番組を流した。NHKの言い分は、理解できる部分もある(なのでテレビ購入後、現在は契約している)。

例えば私は能と狂言が好きで、月イチでEテレでやっている「古典芸能への招待」は欠かさず見ている(今月は野村万作特集だよ!)。日曜の21時というプライムタイムにこんな番組を流すのは、民放ではまず不可能だろう。スクランブルをかけたり、国営にして税金で運用したりしたら、当然金の使い道は問われるわけでこの辺の多様な番組構成は刈り込まれてしまう可能性が高い。サブスクリプション勃興の時代、好きなもの・見たいものにだけ金を払うという傾向がますます顕著になっていくであろう世の中で、市場原理の外側で巨大なマネーを動かし、マイナーなものを放送して文化的な影響を社会に与えているNHKに高い価値があることは認める。

だが、そこに本当に価値があるのだという合意の形成を、NHKはあまりに怠ってきたのではないか。放送の多様性に価値があるのと同様に「そんなものに価値はない」と突っぱねる多様性にも等しく価値はあるはずだ。NHKはそんな声に真摯に向き合ってきたのか。チンピラ集金人を送り込んで、沈黙をさせてきたのではないか。70年前に成立した放送法を盾に取り、それを現状にアジャストさせるような議論喚起をすることもなく、当時存在すらしなかったスマートフォンに「ワンセグ機能がある」というだけで契約を迫り、今度はネットに接続しているだけで受信料を取るのではないかと言われている。外部業者に汚れ仕事をやらせ、上記のような無茶苦茶な訪問営業をさせながらも誰も責任を取ろうとしない。そうやって集めた巨額なマネーは確かに果実を生みもしたが、同時に濃い影を社会に落とし、その中から現れたのが立花氏やN国なのではないか。

NHKはどうすればいいのか。70年間サボタージュし続けてきた「現代における公共放送の役割は何か」をきちんとオープンに議論し、自己改革を継続していくしかないだろう。事業規模も小さくなるだろうが、それでも多様な放送内容を確保すべく邁進し、信頼を蓄積していくしかないと思う。これまでのようにチンピラ集金人を派遣して、契約しないと裁判をするなどと恫喝しながら弱い人から金を脅し取っていったり、アンドロイドのスマホを買っただけで「受信機を設置した」と強弁し契約を迫ってきたりというめちゃくちゃな運用を続けていく限り、影はどんどん濃くなり、より深刻なものを産み落としていくのではないか。