増田へのお返事(超絶ゆるふわ反出生主義の話)

以前増田で質問をいただいたのだが、それに回答するのを忘れていたので書く。元増田の目に入るかよく分からないが、まあ届くことを祈って。

 

いただいた質問

・反出生主義に「友達が生まれてきたことを否定すると私が悲しい。そんな加害を許す気か」といった文脈で怒ってたけど、それじゃ悲しむ人がいない人は生まれてこなくてもよいということか。それは(あなた的に)危うい思想ではないか

 

https://anond.hatelabo.jp/20220124024841

 

これだけだと何のことか分からない上に、私の意図が増田に伝わっていないので下記にまとめる。

 

経緯

まず、id:Ta-nishiにより以下のエントリが書かれた。

ta-nishi.hatenablog.com

 

私なりに要約すると

  • 生まれてくることに人間は原理的に同意できない。
  • なので、出生を事後的に破棄できる仕組みが次善策として必要である。
  • それは安楽死である。

という内容だ。

 

これに対し、私は以下のブコメをした。

現代社会に蔓延する「うっすら反出生主義」と、「産まされてきた」ことに対する契約破棄権としての「安楽死」 - 自意識高い系男子

私は親友が安楽死をしたら「「産まれてこなければよかった」と感じさせられてしまうような、過酷で悲惨な」絶望を感じる可能性があるけど、それは私の同意なくやっていいの? 出生と何が違うのだろう?

2021/05/31 17:35

b.hatena.ne.jp

 

これに増田は傷つき、フォローを外したとのことだった。ここまでが経緯。

 

お答え

まず増田に文意が伝わっていないと思うのは、私は「友達が生まれてきたことを否定すると私が悲しい。そんな加害を許す気か」というような文脈での発言はしていない。

私が言いたいのは、以下のようなことだ。

  • 「同意なしで子供を産むと、子供を苦しめる可能性がある。そのような行動を取るべきでない」という主張がある。
  • だが安楽死にしても、死にゆく人の関係者全員に同意を取ることなどほぼ不可能であり、安楽死を選ぶことで誰かを激しく傷つけ、苦しめる可能性がある。これは前記の主張と矛盾しているのではないか。

なので「私が嫌な思いをするから、私の友人は自殺=私への加害行為をするな」というお気持ち表明ではなく、もう少しロジック寄りの話をしたつもりであった。

増田の書いている「悲しむ人がいない人は生まれてこなくてもよいということか」は前段の誤解から演繹して出てきた主張であって、問題設定自体がピンとこないので特に書くことはない。以上がお返事。

 

超絶ゆるふわ反出生主義の話

以下は上記のブコメの補足。あまりまとまりのない超絶ゆるふわな話なので適当に読んでほしい。

反出生主義についてはきちんと勉強しているわけではないのでぼんやりとした認識しかないのだが(のっけからふんわりとしている)、私は概ね以下のような考えかただと認識している。

  • 子供は生まれることに原理的に同意できない。
  • 子供の人生は苦難に満ちたものになる可能性があり、「生まれたくなかった」と子供が思うかもしれない。
  • 出産とはそのような取り返しのつかない行為なので子供を作ってはいけない。

Wikipediaを見ると膨大な内容が書かれており、私の知能では全容を理解できないので、とりあえず上記にまとめた事項に対してのみ所感を書く。

人間は他人の同意なしに色々な活動をしている

まず、そもそも、出産に限らず、人間は他者の同意なしに様々な活動を行っている。

私は路上にいる人の同意なしにその道を歩くし、コンビニの店内にいる人の同意なしにハイチュウを買う(さっきまでスイカ味を食べていた。美味)。著者の同意なしに本も読むし、いまこれを読んでいるあなたの同意なしに書きたいことも書く。

そして人間のあらゆる活動は、誰かを傷つける危険性を孕んでいる。例えば私が子供を連れて街を歩いていたら、たまたま不妊治療に苦しんでいる女性がそれを見て、どうして自分には子供がいないのかと激しく傷つくかもしれない。何かを書くという行為にしても、読んでいる読者が苛立ち傷つき、被害を受ける可能性は常にある。歩く、書く、話す、買う、呼吸をする、外出する、家にいる……あらゆる活動から加害可能性を完全に排除することは不可能であり、〈加害〉(括弧付きの加害)は、同意なしに、一方的に行われる。

これは安楽死も同じで、誰かが安楽死を選んだら、そのことによって激しく傷つき、苦難を覚える誰かがいるかもしれない。その可能性がある人間すべてに「安楽死をしてもいいか」と同意を取ることは不可能である。子が出産に同意することができないように。

人間は日々、他人を傷つけるかもしれない行動を、同意なしに、一方的に、暴力的に行使し続けている。これは子供を作ることだけに限らない。

 

では殺人は?

だからといって「人間はどうせ誰かを傷つける可能性があるから」と、無制限にあらゆる行動が免罪されるわけではない。多くの社会では同意なしに殺人をやることは禁止されており、同意があっても日本では犯罪になってしまう。

「道を歩くこと」と「殺人」では何が違うのか? これは……

  • 行為が相手に対する加害である危険性が高い
  • 行為が相手に損害を与えるダメージが大きい

という、要するに程度の問題であろう。私が人を殺したとして、殺された側の人が「死にたて死にたくて爆発しそうになっており、私に殺されることを喜ぶ可能性」はあるのだが、一般的にそれは低いと推定される。

街を歩くのも殺人も、他者の同意なく行われるが、加害可能性の高さと被害の大きさにおいて殺人のほうがはるかに深刻であることは言うまでもない。ゆえに後者は社会的に禁止され、街を歩くのは許されている。

では出産は?

このように考えると出産の問題点は「同意なしで行われている」というよりも、「同意なしで行われた結果、相手に損害を与える可能性が高く、与えてしまったときの被害が大きい」ということになるだろう。ではその程度は、どのようなものか?

人生は複雑系なので「子の被害」をどう数値化すればいいのかという問題があるが、例えば「自殺対策に関する意識調査」という内閣府の調査がある。これを読むと「自殺を検討したことがある」人の割合は、概ね25%程度のようだ。4分の3程度の人は自殺を検討したこともないとのことなので、彼らが「生まれないほうがよかった」とも思っていないであろうことは類推される。この25%を大きいと捉えるか少ないと捉えるかは個々人の解釈によるだろうが、少なくとも「子供が苦しむ可能性があるから」と出産自体を禁止してしまっては、75%の人々の「生まれてよかった」という意思は犠牲になってしまうわけで、これはバランスが悪いだろう。社会としては「25%も希死念慮を抱える可能性があるから、こんな行為は禁止すべきだ」という方向に向かうより、その希死念慮を解消するために社会的にどういうアプローチができるのかを考えるほうが建設的だと私は思う。

また「自殺を検討したことがある」と「生まれないほうがよかった」との間には大きな溝があるだろう。かくいう私も10代20代のころは希死念慮がひどく、自殺を検討したことは100回200回では利かないし、当時安楽死が認められていたなら死んでいた可能性もある。そんな私も加齢とともに徐々にセルフコンパッションができるようになり、ぼちぼち生きられるようにはなってきたので、いまは希死念慮に悩まされることも少なくなってきた。「勝ち組はようござんしたね」と言われると困ってしまうのだが、人生とは長いもので、ある時点で強い希死念慮を抱えた人間が、生涯に亘って「生まれたくなかった」という自意識を抱え続けるのかというと、割合は25%よりもかなり低くなることが推定される。

程度問題なので個々人により印象は異なるだろうが、私はこの程度の数字であるならば「出産自体を禁止せよ」という立場には与しない。「加害する可能性があるから表を歩くな」と言わないのと同じであるし、同様の理由から、安楽死が法整備されてもたぶん反対はしないと思う。