百田尚樹と文学賞の三年間

百田尚樹さんが大きな文学賞の候補になったのは、三回。

第30回吉川英治文学新人賞(2009年)、第12回大藪春彦賞(2010年)、第32回吉川英治文学新人賞(2011年)である。

 

第30回吉川英治文学新人賞(2009年)

吉川英治文学新人賞講談社がやっている若手〜中堅向けのエンタメ文学賞で、「新人賞」と銘打っているが公募の賞ではない。文壇的には、デビューしたあとに着実に成績を残した作家が、直木賞のひとつ手前で引っかかる賞という感じか。

2009年の陣容はこれ(引用元は「直木賞のすべて」さん)

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新世界より』『カラスの親指』といった、ほかの文学賞を取っている傑作が落ちる粒ぞろいの年で、百田さんは『ボックス!』というボクシング小説が候補になった。正直、受賞にかすらなかった下位落選ではあるものの、吉川新人賞はノミネートされたがっている若手が山ほどいる大きな賞で、デビューから2年、わずか3作目で候補になるというのは、いかに百田さんに実力と勢いがあり、出版社の期待も高かったかが分かる。

 

第12回大藪春彦賞(2010年)

で、次が翌年の大藪春彦賞。これが問題回であり、いまなお禍根を残している。

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大藪賞は徳間書店がやっている若手〜中堅向けのエンタメ文学賞。まだ歴史が浅いこともあり、吉川英治文学新人賞の一歩下くらいの立ち位置か。大藪先生の名前を冠していることもあり、ちょっと男臭い作品が候補に上がる傾向がある。はてな的にタイムリーなのは、去年の受賞者が元・罪山罰太郎さんこと葉真中顕さんだということだ(『凍てつく太陽』、最高でしたね!)。

で、2010年の回だが、このときは『風の中のマリア』という、スズメバチを視点としたユニークな小説で候補になった。そしてこの選評で、百田さんは選考委員からメタクソに酷評されてしまったのだ。詳しくは図書館で「問題小説」誌を読んでもらいたいのだが、杉江松恋さんがダイジェストをまとめている。

百田尚樹『風の中のマリア』
「〈スズメバチの生態と一生〉という、ノンフィクションノベルとして読むのならば、この小説は格好のガイドブックになるだろう。惜しむらくは、それ以上でも以下でもない」(逢坂)
「(前略)擬人化はやむを得ないとして、寄りかかり方が安易にすぎ、興を削がれるところが少なくなかった」(志水)
「そこにゲノムを理解したうえでの人間の視点が垣間見え、与えられた台詞を語る虫たちの存在感のなさが気になってしまった点だ」(真保)
「蜂の一生は三十日で終る。とても短い。それはいいが、スズメバチがそんなことを認識、思考するはずがないではないか」(馳) 

 

mckoy.cocolog-nifty.com

『風の中のマリア』は、私は面白い小説だと思った。百田さんの小説でも好きなほうである。このお四方はいずれも超一流の作家だが、ちょっと酷評が過ぎるかなという印象。まあ選考会でヒートアップしてしまったのかもしれない。

で、百田さんはこのときの酷評が相当堪えたらしい。ツイッターでも10年間に渡りこのときの恨み節を呟いている。

これは選考の4ヶ月後のツイート。

その1ヶ月後。

 同じ年の11月。

翌年。

 翌々年(増田俊也さんと話していてアツい)

 4年後。脅迫めいた文言まで登場。

 「小説じゃない」という表現は私も可愛そうだと思う。

 さいきんも……!

実に10年間に渡って愚痴り続けていることから、この年が相当堪えてトラウマになっているのが分かる。

 

第32回吉川英治文学新人賞(2011年)

百田さんと文学賞の蜜月はわずか3年で終わり、最後の回は、2度めの吉川新人賞。

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百田さんは『錨を上げよ』という大作で挑むも、落選。でもこの年は惜しく、浅田次郎さんが大絶賛しているので、選考会の流れ次第では受賞していたのではないかと思う(推している人がひとりでもいて説得をはじめると、周りが感化されて受賞したりする)。

大作ということもあり、百田さんとしても期待があったのだろう。その後のツイートからは落胆が伝わってくる。

 

 2012年以降

とはいえ、毎年のようにこのクラスの文学賞に引っかかる作家はほとんどおらず、百田さんが質の高い物語をハイペースで書ける本物の作家だということは、この段階でもう証明されていると思う。実際にこのあとも数多の小説を世に送り出し、多くの読者を楽しませている。偉業といっていい、立派な仕事だろう。

2012年、百田さんは出光を扱った『海賊とよばれた男』を発表し、これが超大ベストセラーになる。出版社からの評価も高く、吉川英治文学新人賞山本周五郎賞(これは新潮社がやってるエンタメ賞)の候補になるのだが、百田さんはこの候補を断ってしまう。

 

 

 人間の思考は変わるものなので、「文学賞がいらなくなった」というのは本当なのかもしれないが、どちらかというと「もう同業者に選考されたくない」というのが本音だと睨んでいる。

実際に百田さんはこれと並行して本屋大賞のノミネートは受け、無事に受賞。そのときは、見ているこちらも嬉しくなるような本当に幸せそうなお顔で授賞式に参加されている。

www.oricon.co.jp

 

なので「賞がいらない」というよりは、やはり「プロに選考されたくない」という嫌気と、「プロがプロを選考するのはおかしい」という問題意識のほうが強いのであろう。

 

まとめ

本稿では百田さんと文学賞の関わりをネチネチと書いてきたが、なんでこんなことをしているのかというと、もし百田さんがこの3回のどこかで何かを取っていたら、いまとはガラリと違う立場になっていたのかもしれないからだ。

いや、もしも候補を受け続けていたら。百田さんはその後も小説を発表し続けていたので、たぶんどこかで何かを取っただろう。その後直木賞作家まで上り詰め、より幅広い読者から尊敬を集める作家になっていたかもしれない。

だが現実は百田さんは厳しい選考会に傷ついて賞レースから降り、いまは文壇的なものとは距離のある作家になってしまった。同業者との繋がりも薄いと聞く。その後思想的なシフトが加速して、いまの百田さんになっていくのは皆さんの御存知の通り。最近も過激な発言をして炎上していた(元ツイートは消えている)。

b.hatena.ne.jp

もちろん文学賞を取ったからと人の性格が変わるわけでもなく、いまの百田さんのようになっていた可能性もあるが、一方で文学賞が作家の立場を変えるのも事実ではある。

こんな可能性もあったではないか。文学賞をいくつも受賞した百田さんは、読者からだけでなく、出版社や同業者からも深い尊敬を集める作家になり、文芸の道にひたすら邁進する。それまでの傑作群を超える素晴らしい作品を次々と繰り出し、社会に数多の果実を与え、創作者からも読者からも、あらゆる人に幅広く末永く敬愛される、途轍もない巨人になっていく。

無邪気だったデビュー当初の百田さんの発言を見ると、どこかで受賞していたら、あるいは大藪賞の選評がああいうものでなかったら、何か歯車がひとつ噛み合っていたら……と、少し寂しい気持ちになるのです。

 

ブログのタイトルを変えた

このブログのタイトルは敬愛する高村薫先生の短編から取って「暗夜を行く」というものにしていたのだが、考えてみると私の人生、別に暗夜を行ってはいないなと思ったのでブログのタイトルを変えた。

あとカクヨムでちょいちょいとフィクションを書いていくつもりなのでこっちもぜひフォローの上、ご感想、お題など大募集でございます。 

小説は公開終了しました。お読みくださった皆様ありがとうございました〜。

匂わせ問題・推しの結婚について

二宮和也さんの結婚の話、ブコメを読んでいて違和感があったので所感を書きます。

bunshun.jp

 

私はこの記事に割と共感しました。特に以下のあたりです。

この大人なファンの心理状態は、社会学者の大澤真幸氏によるところの「アイロニカルな没入」だと言うことができるでしょう。みんな「結局アイドルとは恋人同士にはなれない」と斜に構えて冷静に見つつも、コンサートへ足繁く通い、CDやグッズを買いまくり、アイドルを目にしたときには「愛してる~!」「結婚して!」と叫んでしまう。 

 

そしてこのファンによるアイロニカルな没入は、アイドルとファンの“共犯関係”によって成立しています。

 

また、id:hard_coreブコメにも共感しました。さすがキンボ・スライスをアイコンにする人は信頼できますね。

《二宮和也結婚》“炎上元アナ妻”A子さんの「暴力的な”匂わせ”行為」を社会人類学で分析 | 文春オンライン

プロレスをやれよってことだろうな。この嫁はセメントを要求し続ける空気の読めないレスラーみたいなもんかね。

2019/12/05 00:33

b.hatena.ne.jp

 

アイドルとプロレスが似ているというのはよく聞く話です。それはリアルな人間を、フィクショナルな偶像としても楽しむ二重構造があるためです。

いま我々がプロレスを見るとき、リアルファイトではないという前提で見ます。オカダ・カズチカ「一番強いやつがIWGPのベルトを巻く」と言っている場合、それは「喧嘩で一番強い人がチャンピオンになる」という意味ではなく、フィクションとしてのキャラクター・世界観に載った言葉を吐いているのだなと解釈し、楽しむように思考を切り替えているわけです。まさに「アイロニカルな没入」であり「共犯関係」であります。

もっと卑近な例を出せば、物語を楽しむときもそうでしょう。みんなナウシカやルフィやドラえもんが実在しないことなどわかっていますが、これは嘘なんだとわかった上で彼女らに感情移入し、行く末を見守るわけです。これも作者と読者が「共犯関係」を結んでいるといえるでしょう。

で、二宮和也さんの結婚の件ですが、私はファンへの敬意を欠いていると感じました。

「アイドルの結婚を祝福できないファンは心が狭い」という言説も出回ってますが、それは単純な見方だと思います。例えばNegiccoNao☆さんや、でんぱ組.inc古川未鈴さんが結婚したときには、多くのファンは喜び祝福をしていました。ジャニオタが特別狭量なのか? いや、V6の坂本昌行さんが熱愛発覚しましたが、ファンからは祝福されていますよね。つまり二宮さん個人の要因でしょう。

オカダ・カズチカならコーミエやミオシッチにも勝てる!」といっているプロレスファンがたぶんいるように(いないかも)、アイドルファンにも「いつかニノと結婚するんだ」と信じているガチ恋勢がいるのは確かだと思います。ただ、多くのファンは、いつか推しもリアルな世界で誰かと結婚するのだと理解しつつ、アイドルが作り上げる偶像を楽しんでいるわけです。ならば、アイドルを飯の種にする以上「祝福できる形に落とし込んでよ」というのがファンの願いであって、「共犯関係をそっちから崩すんじゃねえよ」というのが怒りの本質でしょう。私の好きなあの人が取られて悔しいという単純な嫉妬ももちろんあるでしょうが、もっと複合的な感情だと思います。

A子さんがやっていた匂わせ行為というのは、「君たちが応援しているアイドルは裏では私とラブラブなんですよ」という野暮な行動です。せっかく結んだ共犯関係を、現実側から突き崩そうという誰も得しない干渉なわけです。そりゃあ嫌われますよ。ヤクザがプロレスラーを裏に呼んでボコボコにしてる動画を上げたり、文楽を楽しんでるときに関係ない人が舞台に上がって「ここに動かしてる黒子がいますよ」とかやっているのと同じですから。「そんなことはわかってるから見せないでよ」という話でしかないわけです。二宮さんはプロとしてそれを遠ざけるべきでしたし、二宮和也個人として遠ざけないという選択をしたのなら、仕事人として批判を浴びても仕方はないと思います。

もちろんA子さんへの誹謗中傷がよろしくないのは間違いありませんし、法に抵触している場合はきちんと罰を受けるべきだとは思いますが。

神奈川県民が崎陽軒を愛しているというのはデマだという話

N国の話ばかり書いていてあれだが、一昨日くらいから立花氏の崎陽軒不買運動に対し、神奈川県民が激怒しているみたいなデマが流れているので訂正したい。統計取っていないので私の感覚になってしまうけど、大半の(私の感覚では98%くらいの)神奈川県民は別に崎陽軒にそこまで愛着はないと思う。

目立つのはこういうやつ。

 

 

私は川崎市中原区というところの出身で、TVKテレビ神奈川)も見ていたので「美味しいシウマイ(シウマイという呼ぶことも初めて知った)崎陽軒」のメロディーは耳に刷り込まれているけれど、なんというか崎陽軒横浜市の企業であって、別に神奈川全体のものではない。もちろん愛着がある人もいるのだろうが、県民食みたいな扱いをされると大変違和感がある。「箱根の温泉まんじゅうを馬鹿にされたら、神奈川県民はブチ切れる」みたいなことを言われているのと大差ない。

実際に同じような見解も見受けられる。

横浜市民ですら愛着がないという見解。

 

 

相模原や小田原の人にとって愛着がないという見解。川崎も同様と思う。

 

藤沢市のかたの見解

 

ほかの市の人は関心がないという見解

こんな話も。

matome.naver.jp

 

なぜこういうデマが広まるのかというと「部外者の知らないローカルルールで一致団結する人たち」という設定が普遍的な面白さを持つからだろう。ブータンの国民は世界一温和で、親を馬鹿にされても怒らないが、王様を馬鹿にされると怒り狂い最悪殺される」みたいな話をされると、自分の価値観が相対化され揺さぶられる面白さがあるわけで、崎陽軒の件が広まっているのは同じ構図だろう(ブータンの話は私が3秒で適当に作った嘘ですよ)。

ただやはりこういう面白いデマが広まって、「神奈川県=崎陽軒」みたいな概念がミームとして定着するのは文化の捏造というか、いいことではないと思う。そもそもひとつの地域をひとつの価値観で塗りつぶすような話も嫌だ。差別はそういうところからはじまるのではないか。「崎陽軒は別に神奈川県民にそこまで愛されているわけではなく、神奈川の県民食でもなんでもない」という、正確な情報がきちんと広まることを願って止まない。