『100日後に死ぬワニ』に激怒

『100日後に死ぬワニ』が完結した。本編自体は割と楽しく読んでいて、ラストもよい終わりかただったなと思っていたのだが、その直後に発表された怒涛のグッズ展開を見て完全に覚め、配偶者が「家の空気が汚れるから黙れ」と怒りだすくらいの大批判を繰り広げてしまうこととなった。

ということで昨日からブクマにやさぐれたコメントを投下していたのだけど、一方で「コンテンツで儲けるのの何が悪いんだ」的な話も出てきている。増田でも当選していた。

anond.hatelabo.jp

せっかくご指名いただいたので、何が気に食わないかを以下に書く。

 

死を利用して金儲けをする浅ましさ

のっけから例え話で危なっかしい限りだけども、例えばずっと見てきた猫のブログがあり、その猫の名前がミーちゃんだとして、ある日その子が死んだとする。こちらは哀しみにくれて、いままで読者として積み重ねてきた記憶を振り返り、猫の冥福を祈り、その死を悼んでいる。

その二時間後に「ミーちゃん追悼写真集・緊急発売!」「映画化決定!」「ロフトでグッズ展開!」とやられたらどうなるか。もちろん反応は人によって様々だろうが、私は何考えてんだと激怒するだろう。死をなんだと思ってるんだと。今回もそれと全く同じ気分で、何かの死を利用して金儲けをしようとする浅ましさに怒っている。

 

フィクションを扱う手つきの不誠実さ

とこういうことを書くと「現実とお話を混同するなんてバカなんじゃないの」と思う人が必ず出てくるであろう。その感想を持つこと自体は全くの自由なのだけど、一方で、現実とお話を等価・あるいは近いレベルで考えて生活している私のような人もいるのだということも知ってもらいたい。

私は物語の力を信じている。フィクションが人を支え、鼓舞し、規範となり、揺さぶり、人生に決定的な何かをもたらす効力があると本気で考えている。実際に私自身も本当に多くの物語に救われてきたし、私の人格や人生はたくさんのフィクションが背骨となって形成されている。

私の内面には、いままで読んできた / 見てきた多くの創作上のキャラクターが存在していて、それは実在の家族や友人とフラットに同居している。ゆえに、大切なキャラクターの死について、亡くなった友人を悼むようにふっと思いだすことがちょくちょくとある。

例示をすると『ジョジョの奇妙な冒険』のアヴドゥルは、私にとって極めて大切な人物だ。長い旅の苦楽をともにし、ようやくそれが成就しそうだった矢先に、友人をかばうためにあっさりと死んでしまった。彼の人生は報われたのか、彼が見た末期の景色はどういうものだったのか、私は彼のように高潔に生き、命を投げ捨てて友人を助ける選択ができるだろうか、年に何回かはそんなことを考えるし、アヴドゥルが死んでしまった事実に打ちのめされるし、彼に恥じない人生を送りたいと思っている。だからヴァニラ・アイスとの戦いはいまだにつらくて読めない。

これは何も私だけの異常性格ではなく、有名な話だと寺山修司が『あしたのジョー』の力石徹の葬式をやったという話がある。

 

www.sougiya.biz

 

寺山修司が私と同じなどと思い上がったことを言うつもりはないが、これもやはりフィクションに思い入れ、キャラクターの死を現実の人間の死と同じ、あるいは近いと感じているからこその行動であろう。葬式は盛況だったそうなので、そういう人は少なからず存在するのだ。

翻って『100日後に死ぬワニ』だが、この漫画は死という極めて重たいテーマを扱っていながら、その題材に対する誠実さが全然ない。この作者はワニが死のうがなんだろうが何ら痛みを感じておらず、飯の種、名声へのステップくらいにしか思っていないでしょう、そこがもうヘドが出るくらい嫌だ。それに群がっている広告代理店の連中も嫌で、要はフィクションを信じていない、フィクションによって支えられていない人間のやり口だから嫌なのである。「キャラクターが死のうがなんだろうが、実際には何も死んでないんだし何が哀しいの?」と考えること自体はもちろん自由だが、そういう連中がわざわざフィクションを扱い、自分がのし上がるための踏み台にしているから嫌なのだ。私の嫌悪の源泉はここにある。

 

以下は蛇足。

 

コンテンツで儲けて何が悪いの?

全く悪くないしむしろやるべきだが、死者に敬意を払うことと両立する話だろうとも思う。「それだと売りどきを逃してしまう」という意見は全くその通りだけど、その問いが立つこと自体が「キャラクターの死と金とのどっちを優先するの」という二択が発生している証左であって、そこで「金」と答えられるのは、私の価値観では嫌だという話である。

 

死を売りものにするコンテンツが悪いの?

という極端な話をしているわけではなく、ここでも同じく「死者に敬意を払え」という言葉を繰り返すこととなる。作者が、自らがクリエイションしたキャラクターに思い入れ、その死と向き合い、自然と湧き上がってくる弔意とのバランスを取りながら物語を紡いでいるのが伝わってくるのなら私はすごく共感するのだが、まあそれでも怒る人はいるかもしれない。今回のはその俎上にも上っていない、論外である。

 

死を不誠実に扱うからこそ生まれるコンテンツもあるのでは?

これはその通りだと思う。本格ミステリ小説なんかはそうでないと成立しないだろうし、『コマンドー』のようにチンピラを虫けらのように殺していくからこそ面白いタイプの話もあるだろう。

「死を不誠実に扱う」という文脈からはずれるかもしれないが、キャラクターを冷徹に突き放しているからこそ生まれる味というものもあって、例えば高畑勲さんなんかはこの「突き放し」タイプのクリエイターであろう。『かぐや姫の物語』の姫も私にとってはとても愛おしく大切なキャラクターなのだけど、あの作品は作者が姫側にたぶんあまり感情移入をしていないからこそ凄まじく絶望を感じるエンディングになっていて、私は見終わったあと数日は使いものにならないほどの虚無に囚われた。キャラクターを冷徹に殺すことが持ち味の作品も、もちろんある(姫は殺されたわけではないけど)。

ただ今回はメメント・モリ(死を忘れるな)的なものが作品の中核テーマとなっているわけで、『100日後に死ぬワニ』は『コマンドー』とは違い「死」そのものの重たさ、日常と地続きに唐突に・不可避的に訪れる喪失を描こうとした作品であろう。そういった作品が死をテケトーに軽々しく扱っているのはどういうわけだ。これはあまりにも不誠実だと思うし、こんな嘘で塗り固められたコンテンツがこれから「ワニの死に様に感動」みたいな文脈でうんざりするくらい蔓延るだろうことが本当に嫌だ。

 

というような話を休日の夜に延々と聞かされた配偶者が一番気の毒な気がするので、起きたら謝ってきます。